もしも人間の人生が、セミのようだったら。
夜道で秋の虫が鳴きはじめました。
セミが必死に鳴きながら、少しずつその数を減らしていきます。
8月23日は、暦の上では「処暑(しょしょ)」。「暑さがやわらぐ」という意味だそうです。
何年もの長いあいだを暗い土の中で過ごしたセミが、地上では一ヵ月ほどしか生きられないことを知って、子どものころは「かわいそうだ」と思っていました。
でも先日、日比谷公園でセミの抜け殻を見てから、考えています。
暗い土の中がかわいそうっていうのは、人間の勝手な思い込み。
もしかしたら、寒暖の差が少なくて、まぶしさも日焼けもなく、ぬくぬくしっとりした居心地のいい場所かもしれません。
もしも人間の人生が、セミのようだったら……と考えてみました。
たとえば、人生80年として。
それまでの70年間は、悩んだりあくせく働いたりするとして、最後の10年にもっとも輝かしく、力にあふれた、それまでの人生とはまったく違う恋と出会いと新体験の季節が、約束されているとしたら……。
それがタイムリミットのある最後の時間だとしても、素晴らしくないですか?
織田信長式に「人間(人生)五十年」だとしても。
その最後の7年間が、人生でもっともパワフルな季節だったら。
そんな一生も、悪くないな。……なんて、思ってしまったのでした。
まあ少なくとも、セミはかわいそうではないなと思います。
他人がどう思おうと、セミにとってはどうでもいいことでしょうけれど。
人間も、動物も、植物も、それぞれの速度で自分の生涯を生ききっていくのでしょう。
動物写真家・岩合光昭さんの著書で見た言葉として記憶しているものに、うろ覚えですがこんな言葉がありました。
「生命すべてに必ずしも幸運はない。けれど、すべての生命に幸せな時間はある。」
確か、アフリカの厳しい大自然で食う食われるの関係に生きる野生動物を指しての言葉だったと思います。
不運にも短命な草食動物もいれば、エサにありつけず、子どもとともに飢えて草原をさまよう肉食動物もいる。
それでも、どんな命にも……。
自分の物差しでしか、すべてを計ることができないのが人の常ですが、それでもちょっとは視点を変えてみると、新たな世界の切り口が見えてくるものです。
植物も動物も、しばしばそのきっかけをくれる。
街にしか住んだことがないからかもしれませんが……
子どものころも今も、自然は大いなるワンダーランドです。